歴下亭の「オモシロイからナルホドまで」

古書店・歴下亭(Amazonマーケットプレイス)を営む「本の虫」のつぶやき。本・雑誌・音楽などなどのこと。

『江戸時代のロビンソン』がオモシロイ!!

江戸時代のロビンソン―七つの漂流譚 (新潮文庫)medium]

 ●新潮文庫『江戸時代のロビンソン』(岩尾龍太郎著)を一気に読んだ。「七つの漂流譚」というサブタイトルが付いている。ロビンソンは、あのデフォーの「ロビンソン・クルーソー」のことだ。なんというジャンルに属する本なのか、というようなことはどうでもいい。とにかく僕的にはとても興味深く、スリリングでもあり、なによりもいわゆる「歴史」本に掲載されている項目の行間を垣間見るような快感すら覚えてしまった。

 

●【オモシロイ度】10【ナルホ度】12。10段階評価なのに12って? ま、いいじゃないですか。それほどフムフムがたくさんあったってことです。とにかく「一気に」がなによりそれを裏付けてくれている。


 
●本題から少し離れてしまうが、この画像には帯がない。帯にどんなことが書かれているかというと、「生き抜くための挑戦と冒険 読むものにでっかい勇気を与えてくれる---椎名 誠」「奇跡の生還を果たした船乗りたちの物語」。

たしかに漂流中、漂着後のサバイバルの記述には鬼気迫るものがある。それが現代仮名使いでなく江戸時代の表記法で書かれていることでより増幅するということもあるかもしれない。鳥島で生還するまで数万羽のあほうどりを殺し、食用に、羽や羽毛を衣服に使用した記録などは想像を絶する。それはそれで冒険譚だったり生き延びるすさまじさを伝えて余りある。

しかし、それだけが前面に押し出されて「船乗りたちの物語」などというキャッチとなることに、少々いや大きな違和感をおぼえる。その辺は読み手によってさまざまな受け取り方があるかもしれないので深追いはしない。(いつでもそう、帯の惹句は飛ばして本編に直接入りましょうね)

仲間が次々に死んでゆくなか、生き延びて生還した「勇者」を待ち構えていたものはなにか。そちらのほうに僕は興味をもつ。時の体制は、生還者がもつ「情報」をけっして開示せず封殺した。航海に関しての、船の構造とか航路、自然環境などの情報、体験者によって教えられる漂流時のノウハウ、漂着してから命を守るためにどうするかといった情報は同じ仕事をする水夫たちに伝わることはないどころか、生還者を軟禁状態にしてその口から情報が洩れることを禁じた、という。

漂流譚もさることながら、その注釈や合い間に書かれているそうした「分析」こそが本書の視点を明確にするものであり、現実の政治や文化、歴史と交錯する見識としてはるかに面白い。

 

●で、古文書の引用部分読解に少々手間取ったものの、この「引用部分」が、慣れてくるとまたなんともいえない。現代文にない味わい、リズム感があるのだ。意味不明もときどき出現するがテキトーにパスしてゴーアヘッド。このへんはもうねばりと想像力の勝負なんだけども、当時(江戸時代)に関して知っている限りの知識を駆使しつつ、イマジネーションを掘り起こし膨らませての読了とあいなった次第。

 

●こういう本に出会ってしまうと、過去の例からして確実に大変なことになる。今まで記憶にあるのは『北差聞略』くらいで、これも読みにくい部分は飛ばして読んだ程度だから、ジャンル的にはほとんど白紙状態。あ、『十五少年…』も本棚にあったような。ま、とにかくこうしたジャンルについての知識はほぼゼロ。それがどうだ、著者の岩尾龍太郎が設定する「問題意識」の穴にはまり込みそうな感じなのだ。<海の論理>と<陸の論理>という展開がとても刺激的ですらある。

 

●まずあとがきにタイトルが挙げられている『漂流』『島抜け』『難風』といった小説群を読破したくなってくる。このあたりまではまあ、実行可能範囲だろう。さらにこの『江戸時代の…』での著者の視座を確認しつつ「ロビンソン・クルーソー」や「ガリバー旅行記」等も読みたくなってしまう。約半年くらいは、読書(読む・買う・借りる)はこれ一色になる。まず間違いなくそうなる。<ニホンオオカミ>のときもしかり、<音楽を聴く>に関しても例外でない。もっとも後のほうはあまりの膨大さに、地下にもぐってしまった感はあるけれども。これは一応自分がコレコレの事項に関してはこういう解釈をする、というある程度の結論めいたものが定着するまで(あるいはイヤになって放棄するまで)ケイゾクするのだから、どうしようもない。「オモシロイ!」というテーマに出会ったことを幸せとするべきなのか?

 

●一部引用する。<>部分。

<「私は酔狂にも二十年間、それら無数の荒唐無稽な「ロビンソン変形譚」を収集・比較・研究してきたのだが、あるとき、海に囲まれた日本列島ゆえに古くから膨大な漂流事例があるはずなのに、それらの事例が我々の祖先の苦難に満ちた偉大な体験としてまったく伝承されておらず、また、それらを素材にした漂流物語が今日でも極めて少ないことに気付き、愕然とした。>

 

<冒険そのものに対する眼差しが今なお冷ややかだ。すぐに、お上や周りから咎めが来る。現代日本は冒険(アドベンチャー)を抑制しながら、ベンチャー・ビジネスだけは奨励する奇妙な二重拘束社会となってしまった。管理詰め込み教育の反省から、ゆとり教育を強制してもサバイバルする力は育たない。自然に発露すべき冒険心の抑圧、冒険物語の不在は、とくに幕藩体制が固まった近世以降きわだつようだ。逆にこの時期こそ、西欧では大航海時代を迎え、海洋冒険を鼓舞する物語が興隆した。彼我の落差はどこに由来するのか。>

 

…といったような部分からはじまり、陽の目を見ないかなりの数の漂流記録及びその写本の存在、そして記録に残らずに海底にねむるその10倍はあろうかと推測できる漂流事例(生還者がいなければ事例は記録できないという意味で)に、注釈を加えながら触れていく。更に引用する…、としたいところなのだが面白かった本の、傍線を引いた部分を引用してブログに載せていてはこちらが持たない。ブログ漂流サバイバーになってしまう。

 

●じかに入力しているため、論旨が行ったり来たりする、同じことをくりかえしたり、同じ言葉を使ったりするなどのザツな部分が目立つかもしれないが、是非お目こぼしを願いたい。本を一冊モノにするわけではなく「早め更新」のブログをやっているのだから、との言い訳はむなしいが、あえてそう言ってしまおう。なによりも「面白い1冊だった」ということと、面白さが僕にとってどのあたりなのか---の片鱗が伝われば十分だと考えたい。

●後日談。北大路欣也主演「漂流」はVHSで観た。映像にするのはかなり困難だったろうナ。小説も2冊読んだがどれもイマイチ。僕の問題意識に抵触する部分があまりにも少なかった。徒労とまでは言わないけど。それよりもネット上で当時の船の構造とかを調べることのほうがはるかにスリリングだった。

*この記事は2009年10月29日にアメブロにアップしたものの加筆修正版です。表現に「時間差」が出てしまっている部分があったら、スルー願います。