歴下亭の「オモシロイからナルホドまで」

古書店・歴下亭(Amazonマーケットプレイス)を営む「本の虫」のつぶやき。本・雑誌・音楽などなどのこと。

諏訪根自子という名前の記憶

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◆去年のことだ。↑この記事が新聞に載ったのが9月24日。これを皮切りに(といっても関連性はヴァイオリンだけだが)BSプレミアム五島みどりが日本で行ったツアーのドキュメントが放映され(録画したがいつだったかおぼえていない)、10月4日には堀米ゆず子、有希・マヌエラ・ヤンケ、パトリツィア・コパチンスカヤ原田禎夫チェリスト)そして10月10日には有希・マヌエラ・ヤンケの続報というかたちでヴァイオリニストに関する記事が相次いだ。いずれも小さな記事だったが、政治・経済等にほとんど興味がない自分的には「ラッシュ」に近い状況だった。

諏訪根自子という名前は何歳のころだったか、亡父から何度も聞いた。クラシックに興味のない子どもだったこともあって、歯牙にもかけなかった。いまでも覚えているのは「シャリアピン」という名前と二つだけだ。30歳をすぎてからか、自分もまたクラシックを好んで聴くようになったのは。だが、諏訪根自子の演奏を聴きたいというところまではいかなかった。

◆死亡記事を読んですぐにwikipediaを開くと、沢山のことが連想ゲームのように去来した。まず「あ、まだ生きていたんだ」。次に「父と同世代だった」こと。叔母(父の妹)からの伝聞だと、東京大空襲のあと、周りの家屋が燃え尽きてしまった後も、父の家は火が消えなかった。大量の音楽関係の蔵書が燃え続けたからだという。そんなことも記憶の中から飛び出してきた。

◆自分が誕生する以前の出来事を年長者から聞くのは、とても楽しいことに思えた…という記憶は今でもかすかに残っている。そして、本当に「知りたい」との思いはいつも遅れてやって来て、気づいたときには教えてくれる人はすでにいない。「ああ、あの時耳を傾けていたら…」との後悔は「自分が生きること」のパーツなのか。

岩波書店刊『ベートーヴェン』の帯にこんな一文がある。<英語で書かれ、ドイツ語で出版されたセイヤーの伝記が最初に翻訳されたのが日本語で、しかも40年以上も前のことであったのも、また、ノッテボームの壮大な2巻の『ベートーヴェニアーナ』が日本語以外のどの言語にも翻訳されていないことも、また、アルトゥール・シュナーベルベートーヴェン・ピアノソナタの歴史的な録音が西洋諸国で廃盤になってからも日本だけで入手可能であったのも、どれも偶然のことではなかった…。>

この文章と諏訪根自子の時代と、どれくらいオーバーラップするのかわからない。けれども東洋の小さな島国の、クラシック音楽のレベルがいかに高かった(高い)がわかるような気がする。

◆長い船旅をしなくては外国に行けなかったころ、欧米の音楽家がしばしば日本に立ち寄り、演奏をしたという。そんなステージを父は観ていたのだろうか。叔母も100歳近く、話を聞くどころか会話すら成立しない。

◆ここまで書くのになんと、半年近くもかかってしまった。とりあえず(まただ)くくりを付けて次に移ろう。